渡邉義浩「名士論」を読む前に
読む前に読むブログじゃなくて、僕が読む前に間接的に知った範囲で思った事。
読んだ後はまた別の事を思うかもしれぬ。
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ちなみに絵は諸葛亮ではなく、空箱の意味がわからず困惑顔で、軽やかに生き残る荀イク。
荆州派閥の名士、諸葛亮
諸葛亮は琅邪郡の出自で、戦乱を逃れ荆州に隠遁中していた。一族のバックアップが無い状態である。
名士と交友関係を結べるような、金銭的にも恵まれた状態ではなく、自ら畑を耕すような生活である。
自らを楽毅、管仲に準えた広言には親好のあった友人二名が支持してくれたものの、他の人物達からはそっぽを向かれている。
また、門地もない諸葛亮が派閥を作るには若すぎる。
とても荆州の名士として中心人物であったようには思えない。またそのような記述も正史には無い。
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司馬徽やホウ徳公(荆州名士であると記述がある)が認めてくれてはいたものの、彼等の支持が必ずしも名士として名高くなるわけなではないのことは、ホウ統もまた、無名に近い存在であったことからもわかる。
名望のある人物は領主より士官要請があるものです。張昭、周瑜、魯粛、荀イク、荀攸、郭嘉その他諸々。士官要請を断る事で慧眼を揶揄されていけれど、そのような士官要請は劉備から以外は諸葛亮にはありません。
蔡瑁や荀イクのように派閥?と共に覇者に協力したとの記述もない。
諸葛亮は派閥の長として陣営における実力者にも関わらず、劉備は諸葛亮の権限を増す為に、旧臣との仲を取り持つ為に労を取っている。
諸葛亮の役職は劉備の補佐(近臣だが権力がない存在)にあたり、劉備の権限がなければ何も出来ないポジション。
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まぁ、当初より荆州の名士としての中心人物だから劉備が諸葛亮を登用したわけじゃないよ、と。
荆州派閥と益州派閥
劉備は益州派閥の代表として法正を選抜し、荆州派閥の諸葛亮に対抗したとの説があるが、法正は蜀制圧の最大の功労者であるのだから、見合う高官の役職を与えるのは当然である。法正は諸葛亮、劉備から見れば領地を献上してくれた大恩人ではあるものの、益州閥から見れば、裏切り者である。
また、法正は才能は別として器量に難があり、とても派閥の長としてやっていける人物ではない。
以上により、対抗人事としての抜擢とすれば難のある人事と言える。
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諸葛亮は旧益州系の人物とも親交がある。それは劉備の入蜀を劉章に諌言した黄権を含める。
諸葛亮の政治は「公平な人事」を基幹とした統治である。この「公平な人事」は正史において何度も何度も強調され出てくる。
寵愛厚い人物である馬謖を処断することからも強調されている。
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まぁ個人的な寵愛や抜擢はあるものの、その姿勢は派閥人事とはほど遠い。
諸葛亮は派閥の破壊者
んで、僕の結論は、諸葛亮は劉備の子飼である。派閥に属していたとすれば、それは劉備派閥であるだろう。
劉備派閥とは何かと言えば外来政権における勝者であり、益州からみれば、根無し草達だ。
劉備派閥には法正等、益州からみれば裏切り者達も含まれる。
んで、諸葛亮は劉備より派閥を譲られ、カリスマ亡き蜀の立て直しを託される。
夷陵を止められなかった諸葛亮が、遺言があったとしても、すんなりと権力を握れた事は劉備の子飼である証左と言えるのではないか。
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根無し草である征服者の王朝ではあるが、根が無い故に、非征服者達の人材の供給(協力)なくして国が立ち行かない。諸葛亮は非征服者達の積極登用を行っていく。派閥の自然消滅を前に解体することで融和と目的意識の共有を目指したのではないか。
三分の計、どんだけ諸葛亮嫌いなん?
周瑜、甘寧等の二分の計、魯粛の改良二分の計をもち、諸葛亮の三分の計が誰でも考えられる陳腐な策とされれている発言が多い。
まってくれと。二分の計は揚州に領地を持つ孫権に対して、曹操に対抗する策である。
とてもではないが、領地も無しで食客に過ぎない劉備が天下を統一する策じゃない。
孫権には幾人も二分の計を説く人物は出てくる。根無し草劉備に天下を統一する方法を説いたのは諸葛亮以外居ない。
普通は領地も無い劉備に天下統一の方法を問われれば、苦笑いが関の山だろう。だが諸葛亮の青二才は天下の奇策を吹いた。さすがはMr.ビックマウス諸葛亮。恐れを知らない自信過剰。世の中の事わかってんのか!?と言えるくらいに、根無し草にも天下を取れますよ、と。
劉備も苦笑いしたかもしれない。でも、内容を聞くうちに出来るかもしれないと思い始め、この若造を登用したのだ。それも過分な地位で。
ツー感じで
読んだら意見が変わるかもしれません。それを楽しむ記事ですよ。おすすめの本等あれば教えてください。
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