心配しなくても愛国無罪は法律じゃないよ

tairai2010-11-20

サライ
愛国無罪という倫理観」を持つ事は違法ではない。
愛国無罪という目的(倫理観の実現)」の為に(違法ではない)手段を思いる事も違法ではない。



当たり前ではありますが「愛国無罪」という言葉はスローガン(倫理観)であります。
にも、関わらず法律の問題に話を展開している人が多くあります。この話のズレはなんだろうと考えたのですが、ひょっとして彼らは「愛国無罪という架空の法律」が存在していると考えているのではないでしょうか?
少なくとも「愛国無罪と主張している人たちは愛国無罪という法律の適用を求めている」と思っているように思えます。
件の例で言えば
引用:政府が国益を損う判断をしたときに、職を賭し、人生を賭して、情報を公にした内部告発者は立派だからである。
http://www.j-cast.com/tv/2010/11/08080162.html
という文章にこのように反論しているのである。
引用:立派なことをしたかどうかと、違法な行為をしたかどうかは別次元の話。この話を混同してしまうと法治国家ではなくなる。「立派だと思う」という感情で法を曲げてしまっては、法治国家ではなく、「人治国家」になってしまう。
http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20101109/p3
前者の人は、スローガン(倫理観)として、愛国無罪を訴えているに対し、後者の人は愛国無罪の法律適用を恐れているのです。
自分はこう言いたい。「落ち着いて、愛国無罪って法律は存在しないよ」と。

あるいは、愛国無罪を文字通りを理解してしまい、「スローガン」と理解していないのかもしれません。
この間違いを例えるなら、
中華には「白髪三千丈」なんて言葉があります。李白の詩の一節で「年老いて人生の憂いや悲嘆の日々を嘆く」という意味で使われます。よく、中華の人の大げさな言い方として例題されるので、ご存知の方も多いかもしれません。
この言葉に対して「白髪が三千丈なんて人間としてありえることではない、だから白髪三千丈なんて言葉は成立しない」と主張している人が居たらどうしますか?
自分ならこう言います「落ち着いて、君は何を言っているの?」

先進国を含め、他国も政府の隠蔽工作へのリークは喝采を持って迎えられう場合が多いように思います。
愛国無罪という言葉(語感)に踊らされて、倫理観や意見の表明を狂わせている人が多いように思えます。
いつの間にか「愛国無罪の処分と、管理体制を問う」が尖閣諸島問題の主題になっているようにも思えます。これで、隠蔽した事での政治的効果(国益に叶う行為)が適切であったか、という政府の能力を問うという事は有耶無耶になっているきがします。
ともかくもキャッチコピーは人を動かす強力な武器であるというお話といえますね。だからコピー料金とデザイン料金は別にするべきだと思います。